このレポートは、かたつむりNo.329[2009(平成21)6.7(Sun.)]に掲載されました

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6月活動「江ノ島自然観察」によせて
運営委員 相 原 延 光
 
 江ノ島はいつもおおぜいの人たちがいて、にぎわっています。それはなぜか?調べてみました。

(1)鎌倉武士と江ノ島の関係

 今から800年前、武士(ぶし=さむらいのこと)が日本の国を動かす時代が誕生しました。 この武士を鎌倉(かまくら)武士(ぶし)といいます。 「いざ鎌倉」という合い言葉がありますが、これは、 鎌倉の将軍との信頼関係を結ぶ武士の大事な心構えでした。 将軍のいる鎌倉に一大事が起こったら何をおいても駆けつける、そのときに困らないようにいつも心やからだをきたえていました。 そのためにも学問・芸術の守護神(まもりがみ)(2本または8本の腕を持つ)を弁財天(もともとはインドの川の女神様) にお祈りしていました。 後の室町時代になったら、人々に福徳(ふくとく=良いことをすると幸せと良い心が生まれ、お金がたまる) という女神である吉祥天(きちじょうてん)をお祈りするならわし(=信仰)が混ざってしまって、 「江ノ島弁財天」と呼ぶようになりました。
 今から400年前の江戸時代には戦争が無くなり、人々の願いごとも内容が少し変わってきました。 例えば「赤ちゃんが無事に生まれますように」とか、「勉強ができますように」、「家の中に幸せがきますように」 といったお願いをするために江ノ島弁財天にお参りするという、江ノ島詣(えのしまもうで)が盛んになったのです。
 江ノ島弁財天は琵琶(びわ)という弦楽器を持っています(写真1)ので、 音楽や演劇を仕事とする人たちにもお祈りの習わしができました。 300年間という大変長い平和な江戸時代でしたから、人々は少しお金がたまると信仰半分、 旅行半分の江の島詣(もうで)が盛んになりました。今でいうレジャーブームですね。 とはいっても、当時の旅は現在の様に乗り物でその日のうちに着いて翌日は行き先でゆっくり遊ぶといったものではなく、自分で歩くか、 お金に余裕があれば馬や籠に乗るといった旅で、江戸から江の島に着くのも2日がかりでした。 江戸時代には、ただ観光のために旅をするという習慣はほとんど無く、旅には信仰という名目が付きます。まじめだったんですね。 1日40km近く歩く旅ですが、江戸から比較的近くにあって信仰と観光の地として江の島は大変な人気のスポットだったのです。
 次に当時の一般の人々の人気コースを紹介します。地図上にルートを書き込んでみるとイメージがわくかもしれませんね。
○江ノ島・鎌倉3泊4日コース例
 江戸発→(東海道)→程ヶ谷(ほどがや)宿1泊鎌倉への道中1泊 →鎌倉の寺、鎌倉八幡宮参詣→朝比奈切り通し→六浦の景観→金沢八景の称名寺参詣→川崎宿1泊 →川崎大師参詣→江戸着
○大山、江ノ島、鎌倉5泊5日コース例
 早朝江戸発→(大山街道:矢倉沢往還=厚木街道)三軒茶屋、二子、溝口、江田か長津田で1泊 →鶴間(現在の町田市)、下鶴間(現在の大和市)、厚木→伊勢原で1泊 →大山阿夫利神社(あふりじんじゃ)参詣→藤沢宿1泊 →江ノ島で江ノ島神社と岩屋参詣、鎌倉の寺、鶴岡八幡宮参詣→朝比奈切り通し→六浦の景観 →金沢八景の称名寺参詣→金沢1泊 →川崎大師参詣、品川遊郭で精進落とし、品川宿1泊→江戸着

(2)江戸の文化は西洋の文化と出会って発展しました

 江戸中期の8代将軍徳川吉宗(1684〜1751)は、将軍在職30年間に様々な改革(享保の改革) を行って財政の立て直しを図りました。例えば倹約(せつやく)のすすめや武芸の振興、年貢(米や労働による税金)の増加、 町人による新田開発、目安箱(幕府に対する庶民の声を聞くための投書箱)の設置、養生所(病気を治す民間の施設)設立や奨励しました。 長崎では医学洋学などオランダ語を通して西洋の学問を学ぶことができました。 このことは後の明治時代の日本の近代化の基礎になったのです。
 江戸後期になると、前野良沢(1723〜1803)は杉田玄白(1733〜1817)とともに、 人体解剖の蘭書「ターヘルアナトミア」を翻訳して「解体新書」を発行しましたが、実際に死刑囚の死体を解剖して調べています。 この本は当時の日本にはない銅版画で印刷されていました。そのため翻訳本は日本の技術である木版画で絵を描き写す必要がありました。 杉田玄白の友人であった平賀源内(1728〜1779)が鉱山開発の目的で秋田藩を訪れた際、 東洋画(狩野派)の絵師である小野田直武(1750〜1780)に解体新書の解剖図の模写を依頼しました。 エレキテルで有名な平賀源内は西洋画の透視遠近法(「遠くの風景を小さく、近くを大きくかく」方法で、 ありのままに書き写す技術)も得意でした。その技術を22歳年下の小野田直武に教えたのでした。

(3)江ノ島の「めがね絵」

 小野田直武は平賀源内と交流することになってから江戸での生活が続きました。 その当時は木版画の浮世絵がはやっていて、透視遠近法で「浮き絵」をかき残しました(写真3)。
 この絵はレンズを通して拡大してみるので「めがね絵」ともいいました。「めがね絵」は左右が逆さまになっています。 なぜ逆さまなのか?考えてみてくださいね。

(4)「江ノ島図」の2人の作品を見くらべよう

 それから100年たった明治初期の西洋画家の高橋由一(1876−77)も江ノ島を描いています。 同じ風景を書いているのに2人の作品はずいぶんと違いますね。(写真5)
小野田直武の作品と比べ、木の1本1本や人々の様子がこまかくきちんと書かれていますね。江ノ島の左側に大きな崖が現れています。 今の女性センターの裏山の崖のようです。100年の間に崖が崩れるような大きな事件があったのでしょうか。 また、この絵か引き潮の時に渡れたことがよくわかりますね。
 写真6は同じ高橋由一の江ノ島の作品です。上と違って、たくさんの人が江ノ島の方に向かっています。 よく見ると、不思議なことに女性や子供ばかりが書かれています。 どうも女性である江ノ島弁天様への遠慮があって、男女の観光客を別々に通行させたということです。これ本当の話です。
 (以上)





※HP掲載に当たり、写真は全て掲載不可となりましたので削除しています。
写真1:江ノ島弁財天
写真2:小野田直武の彫像
写真3:江ノ島図(めがね絵)小野田直武作
写真4:のぞきめがねと原理
写真5:江ノ島図 高橋由一作
写真6:江ノ島図 高橋由一作

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