このレポートは、かたつむりNo.272[2005(平成17)6.12(Sun.)]に掲載されました

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時間を共有すること
運営委員 道 上   定
 
 国民の祝日がまったくない6月ですが、記念日となる祝日はたくさんあります。 1日は気象記念日、写真の日、電波の日、生糸年度の始期。4日は虫歯予防デー、 5日1環境の日、7日1計量記念日、10日1時の記念日、26日:国連憲章調印記念日。 28日:貿易の日、5月5日のこどもの日、 第二日曜日の「母の日」があるのに父の日がないとかわいそうだと、 6月の第三日曜日を「父の日」としました。
  「父の日」は俳句ではれっきとした夏の季語。こんなのがあります。
  悲壮なる父の為にもその日あり   相生垣瓜人
  なんともやるせない気持ちにはなります。
  時の記念日(時の日)も夏の季語で、
  時の日や近江神宮御造営   青木月斗
があります。この滋賀県大津の近江神宮では漏刻(ろうこく)祭が行われます。漏刻とは水時計のことですが、 『日本書紀』巻27・天智天皇の記事の中に
 (十年の)夏四月(うづき)の丁卯(ひのとのう)の朔 辛卯(かのとのうのひ=25日)に、 漏剋(ろうこく=漏刻)を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。 鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろか)す。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の、 皇太子に為(ましま)す時に、始めて親(みずか)ら製造(つく)れる所なりと、云々。
(日本書紀D岩波文庫)
 とあって、水時計を設置し、その管理・運用に役人(漏刻博士)をおいて時を告げたのでした。 もっとも具体的なことはなにも残っていません。おそらくいつの日か民営化されて、 あるいは生活実態に合わなくなって、廃れたのでしょうが文献もなにも残っていません。 わが国には中国から渡ってきたようですが、はっきりしません。
 「はじめて漏剋を用いた」4月25日が太陽暦の6月10日に当たるため、この日が記念日となったもの。 1920年(大正9年)生活改善同盟会の提唱で実施され、いまや全国的なものとなっています。
 もともと生活の上で「時刻・時間」を意識したのは太陽の動きだったはず。 だとすればおそらく「日時計」から時を計ることが始まったのは間違いないようです。 が、日時計の名前のとおり夜は使えないし、昼間であって1も曇りや雨だともうダメ。
 とはいいながら、 その日時計さえも日本では古代から中世を通して使用した形跡は実物も文献にも見当たらないのです。 (だれか詳しい方は教えて下さい)。
 太陽暦が採用されたのは1873年で、同時に時刻法も1日・24時間の定時法となりました。 それまではおおざっぱな不定時法でした。日の出、日没で1日を昼夜の二つに分け、 それぞれを6等分していたのです。それでじゅうぶんだったのです、狭い地域であれば。 しかし外国との交渉が多くなるとそうはいかない。 日時計、水時計に代わって機械時計が使用されるようになります。 同時に国際的な取り決めで時刻・時間を扱うことになります。
 その後の発達は知ってのとおり。
 日本標準時は独立行政法人の情報通信研究機構・ 日本標準時グループから発射されている標準電波で知らされています。 以前は2.5,5,8,10MHzで送信していましたが、受信の安定度が悪いとして2001年3月に停止、 それに代えて1999年6月以降、福島県大鷹鳥谷山から、 2001年10月からは佐賀・福岡県境の羽金山からそれぞれ50kWの空中線電力の長波帯・40kH, 60kHzで送信されています。
 右の写真は昨年6月10日からの運用開始5周年記念イベントで電波時計で受信報告した際に発行された 「受信確認証」です。
 で、その写真の羽金山は、5月に九州に出かけ、ついでに背振山系の雷山、井原山を歩いてきたのですが、 羽金山はこの山系の西の端にあります。 登山の当日は穏やかな春霞のなか傘型200m高のアンテナが肉眼ではっきりと見えました。 なにしろこのあたり雷の名所ですから、夏や冬は敬遠した方が良さそうですが、 スキーコースも点々とあって、気になりました。
 国家標準としてセシウムビーム型原子局波数標準器で原子時計を制御し・送信されますが、 電離層の関係で若干精度は落ちます。それでも24時間の周波数比較平均値で1×10−11 の精度を保っているとのこと。これを電波時計で受信するのですが、 LSlの内部処理で少しの遅れが生じます。
 でも凄い時代になったものです。送信側も受信側も精度をあげていますが、 しょせん人間が集団生活を営むようになってうるさくなったんで、 社会秩序ゃ統一性をいわなきゃ…時計なしでもいいのです。


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