相模国・鳶尾山から武蔵国・浅草 |
運営委員 道 上 定 |
蓬莱に聞かばや伊勢の初便り(芭蕉)
蓬莱は「蓬莱飾り」で、三方の上にお米を中心に、柿・栗・みかん・えび・昆布などを盛りつけ、そしてユズリハ・ウラジロ等を添えて新年をことほぐ飾り。 新年になってはじめて受け取ったとか、出した便りが「初便り」。 (新年の飾りを前にして、なつかしい伊勢からの便りを聞きたいなあ)と言ったほどの、どうということもない(と思う)句。 1694(元禄7)年、松尾芭蕉51歳の時のもの。『炭俵』句集の1句ですが、俳詣の先生ともなりますと、新年の句を旧年中に詠んで句集にするのです。 その句を「歳旦句」と言います。作者本人が申しております。この時代の50代は立派な年寄りですからね。 おまけに数え年です。さらに加えて今とちがって旧暦では立春近くが旧の元日。なにやら年末に出す年賀状に似ていませんか。わくわくするような、それでいて…。 この句碑が八菅神社境内に建っています。なぜここに? 分かりませんが、蓬莱飾りの「ユズリハ」や「ウラジロ」はこの八菅山が北限という説もあるし、芭蕉も句を作る前に箱根を訪ねてはいるのですが、 これは私の知っていることを書いただけ。 今年も鳶尾山から八菅山を歩き、甘酒二杯で温もってきました。 去年11月に、日本の近代測量の発祥の地点となった、座間と相模原間の三角点5・2キロメートルを結ぶ「相模野基線」が、土木遺産として土木学会から認定されたとの報道がありました。 何年か前に「近代測量発祥の山・鳶尾山」を紹介しましたが、南端の三角点を座間村に、北端の三角点を下溝村に設置。 その間の直綜距離をていねいに何度も実測し、相模野基線を確定したのです。 1882(明治15)年の事でした。そして、翌年4月から『三角測量』が始まり、その2点を左右に見る小高い山にもう一つ三角点を、これが「鳶尾山」。 相模野基線をまたいで向こうに設けたのが、「長津田村」の三角点。それから、大磯の「浅間山」、基線を挟んで向こうに「連光寺村」。 つぎに、浅間山と連光寺村を見通せる丹沢山と千葉・鹿野山。 このように「相模野基線」をもとにして基線を拡大し、より大きな三角網の基準となる「丹沢山」と「鹿野山」との距離を算出したのです。 1等三角網は1辺が平均40キロメートルになるように設計・計画したようです。全国をこのような方法で測量し、拡大して行ったのです。 1925(大正14)年には全国50000分の1の地形図として完成しました。 さて、鳶尾山から「東京スカイ・ツリー」がどう見えるかな?、の期待をして出かけたのですが、無念(と言うには、なにしろ出かける時刻がおそすぎた!)かすんで遠くは見えません。 東北東の方向に、直繰距離ちょうど50キロメートルの位置に見えるはず。スカイ・ツリーの膝元は浅草。芭蕉庵もこのあたり。 観音のいらか見やりつ花の雲(芭蕉)
浅草寺は観音菩薩をお祭りしています。俳句で花と言えばサクラの花のこと。この句は芭蕉庵から詠んだもの。句碑が浅草寺境内にあると言います。 (満開の桜が雲海のようにただよい、観音様のお堂の屋根まで続いているよ)と、また旅心がでてきたか。 鳶尾山はいま桜の名所作りと称してせっせと植樹に励んでいます。 さいわい、常緑樹のスダジイ等でなる「神奈川県指定天然記念物・八菅の社叢林」とはちがって、落葉樹の桜ですから、冬場の眺望や自然観察には良い観察路でしょう。 大磯の浅間山は樹木の成長が速くて、もう、三角点からの見通しは全くききません。 出かけるときは地図、コンパス、あまり倍率の高くない双眼鏡、ルーペなど。サクラの樹で越冬しているヨコズナサシガメの集団を観ましたよ。 うろになっているところ、くぼんでいるところが狙い目、です。 |