このレポートは、かたつむりNo.386[2013(平成25)07.07(Sun.)]に掲載されました

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カタツムリのモース博士
運営委員 道 上   定
 
アメリ力人生物学者エドワード・シルベスター・モースの滞在日記『日本その日その日』が、 講談社学術文庫の一冊として出版されました。発行日は6月10日。 科学少年団6月活動・江の島観察会の行われた翌日のこと。

 今年はモース博士生誕175年にあたり、6月18日が誕生日です。 大森貝塚発見・発掘調査の考古学者として名高いのですが、先生ご自身もお話しのように、 最初の来日の目的は[江の島付近で腕足類を採集、調査・研究する]ため、だったのです。 大森貝塚は開通間もない鉄道に乗り窓の外を眺めていたとき、崖状になった中に白い層を見つけてのことでした。

 腕足類の採集に来て貝塚を見いだす、そのつながりは?
 少年時代のモースは敬虔なクリスチャンの父親や学校の先生方から言わせると、出来の悪い子、でした。 授業は抜け出す、ほかの子と同じことはやらない、集団活動はにがて、と言ったところです。 その様子をじっと見つめていたひとがいました。母親です。この母親は植物採集や、園芸品種の雑種を調べてみたり、 かと思うと(1882年の)金星の太陽面通過を観察しています。
青年時代のモースはカタツムリの収集・分類に力を注ぎました。新種発見も多く、登録を認められています。 報告時の絵も自分で描いています。
 ボストンという世界につながる都市ですから、博物学も必然育ったのです。 (藤沢も世界につながる都市ですが、博物館という文化施設=貯水池がないのです。 もの・情報・人的交流の場がない!位置エネルギーにならない藤沢)。 モースは日本上陸の時39歳の誕生日を迎えたのですが、すでにこのときまでに博物学的素養を蓄えていたのです。
 ダーウィンの進化論の紹介や考古学、生物学、東洋陶器、日本美術の評価などなど、 広範囲にわたる仕事はいま少し再確認されなくてはなりません。
 その全体像を眺めるためにもこのたび出された文庫本は格好の資料です。 原本は1939年、創元社の創元選書として刊行されたものです。 (創元社の本は用田にお住まいのTu先生が1冊、大切にお持ちです。以前に欲しくてネダッたのですが、 「絶対に手放さない!」と、書棚に鍵かけてしまってあるようです)。
 訳者はモース博士の教えを受けた石川千代松(動物学者)の長男・石川欣一氏。 もっとていねいに知りたい方は東洋文庫『日本その日その日1〜3』平凡社 (全書版・平均300ページ・特注クロス装・3分冊)をご覧ください。


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