アジサイにつく虫 |
運営委員 道 上 定 |
アジサイを眺めていると、二人の青年がやってきた。「なんだか汚いなあ。」と、片方の青年。
「切っちゃうんですか?」とわたし。「いえ、交差点の路面の状況を見に来たんです」。
そう、そうと、もう片方の青年がうなつく。「この虫、なんというんでしょうね?」と聞いたが、
そんなの知るかい、と路面の状況の男が、青になった信号に目を移してさっさと行ってしまった。
葉の表にはいっぴきも出ておらず裏に数匹いました。 アジサイにも虫がっくのです。 たしかにアジサイに虫の「喰い痕」を見ることはほとんどないのです。 ところが、私の毎日の散策道路のビル脇の植木にアジサイが三株ほど植えてあり、 その葉には丸い穴がたくさん開いているのです。一つひとつ独立して穴があいています。 つまり虫はまあるく喰っては、別の所をまた食べる。葉脈に沿ってとかの法則性もないような…。 はじめて虫を見たとき写真に記録しておけば良かったのですが、 いつでも撮れるとうかつにも[いもむし]記録を無視したばかりに、その後の探索が行き詰まっています。 6月11日の「梅雨入り」を前にした7日の[天声人語」に堀口大学の詩を引用し、 〈雨ふれば平気でぬれる/風ふけば平気でゆれる/蝶も来ないが毛虫もつかぬ……丸腰ものんきなものよ〉と、 「紫陽花」の詩が。 なるがまま、なされるがままの姿の自然体。そして寂しさ。大柄のあじさいが見事です。 と、ここで詩の世界に浸っているばあいではないのです。「毛虫もつかぬ」はずが、現にいるではないか。 毛虫の名は? 子どもの頃、わたしのいなかでは共同便所にあじさいの枝ごとおいてあるのを記憶しています。 におい消しだったのか、虫よけだったのか。あじさい特有の、虫にとってはまずい成分があるのか、 他の植物とはまた違う一面があるようです。そういえば強い刈り込みにも耐えるところをみると、 そうとう歴史の古い植物なのかもしれません。 今のところ虫の正体はわかっていません。 同時に堀口大学のこの[紫陽花の詩]の原典にたどり着いていません。だれかご存じのかたいらっしゃいませんか。 ノロウイルス感染症も、エボラ出血熱もデング熱も気になるところです。 「生きる」とは「ひとり生きる」ことではないらしい。 虫もウイルスも本体を殺してしまっては自分も生きていけないのだから、 そこにほんのちょっとした[しかけ]がしてあるはず。その自然のふしぎを学びたいと、強く思います。 |