番外編 歴史の跡を訪ねて(2) | ||||||||
−坂本龍馬が泊まった寺田屋(京都市伏見区)− | ||||||||
運営委員 高 木 茂 行 | ||||||||
8月活動が終り9月活動を向かえる頃には、暑さも少しずつ和らぎ、旅行するには一番良い季節を向ける。
そんな時、博物館やプラネタリウムなどの科学施設を訪ねるだけでなく、史跡を訪ねるのも面白いだろう。
これまでに訪れ、印象に残った史跡を紹介する。 さて、皆さんは幕末の志士坂本龍馬をご存知だろうか? 詳しくは知らなくても名前だけは聞いたことがあるだろう。今も多くの人々に尊敬され愛されている人物だ。 坂本龍馬は土佐藩(高知県)に生まれ、日本の明治維新に計り知れない功績を残してくれた。 坂本龍馬が偉いのは卓抜たる先見性を持って新しい政策を打ち出し、それを実行したことだ。 彼が残した偉業はなんといっても、薩長同盟の締結と大政奉還の奏上だろう1)。 当時の日本はペリーの来航により、国中が混乱していた。 幕府が現体制を維持しようとする一方、それを倒そうとする藩や人物が現れていた。 会津藩(福島県)、桑名藩(三重県)などが幕府を維持しようとしたのに対し、 長州藩(山口県)、薩摩藩(鹿児島県)などは幕府を倒そうとしていた。 江戸時代の日本は藩が政治単位になっていて、藩が異なるというのは、今の感覚では国が異なるようなものだった。 同じように幕府を倒そうとした長州藩と薩摩藩でも、アメリカとロシアぐらいに遠い存在だった。 両藩は幕府を倒そうとさまざまな活動を行いながら、その主導権争いをしていた。 両藩が協力することなど誰も考えつかなかった。だが、龍馬は幕府を倒すためには、両藩の協力が必要と考えた。 そして、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允との面会にこぎつけ、薩長連合の締結を実現させた。
そんな龍馬が京都で活躍する時に泊っていたのが、図1の寺田屋である2)。 新しい政策を打ち出す龍馬は、つねに幕府から狙われていた。 薩長連合の話し合いが上手くいった夜(1866年1月23日)、龍馬は長州藩の三吉愼蔵と寺田屋に戻った。 龍馬らの動きは密偵により幕府に筒抜けになっており、その夜の3時頃に伏見奉行所からの捕り方が来襲した。 龍馬は短銃を構え三吉は槍で戦ったが、龍馬は左指を切られ多量に出血した。 二人は寺田屋奥の階段から降り、隣の家の雨戸を打ち破って逃げ、薩摩藩邸に保護された。いわゆる寺田屋騒動である。 寺田屋は当時のままに残り、右側に見える寺田屋の提灯は江戸時代のものままである。 龍馬が襲われた2階の部屋(図2、3)もそのまま残されている。 部屋の柱には、寺田屋騒動の時の刀の跡などが生々しく刻まれている。 寺田屋騒動の後、龍馬は鹿児島に行き静養する。 龍馬が考えた大政奉還の素案は、1867年10月3日幕府に提出された3)。 龍馬は9日に京都に入り、13日には土佐藩に出入りする醤油商の近江屋に移り、大政奉還の行方を見守っていた。 同じ13日、十五代将軍徳川慶喜は十万石以上の諸藩重臣を前に政権の返上、すなわち大政奉還を表明した。 龍馬の喜びと安堵感はさぞ大きかったに違いない。 10月24日には土佐藩の依頼で福井に旅立ち、11月5日には再び京都に戻り、新しい国家の進むべき道を考えていた。 11月15日の夜、龍馬は同じ土佐藩の中岡慎太郎ともに国事を語っていた。 そこに何者かが押し入り、龍馬を殺害、同じく襲われた中岡慎太郎も2日後に息を引き取った3),4)。 わずか33年、龍馬の短い生涯だった。殺害者にはいろんな説があるが、幕末の混乱に紛れて分かっていない。 龍馬らが殺害された近江屋は壊され、今では図4のように旅行社の前に坂本龍馬、中岡慎太郎遭難碑が建てられている。
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