このレポートは、かたつむりNo.317[2008(平成20)08.31]に掲載されました

戻る

番外編 歴史の跡を訪ねて(2)
−坂本龍馬が泊まった寺田屋(京都市伏見区)−
運営委員 高 木 茂 行
 
 8月活動が終り9月活動を向かえる頃には、暑さも少しずつ和らぎ、旅行するには一番良い季節を向ける。 そんな時、博物館やプラネタリウムなどの科学施設を訪ねるだけでなく、史跡を訪ねるのも面白いだろう。 これまでに訪れ、印象に残った史跡を紹介する。
 さて、皆さんは幕末の志士坂本龍馬をご存知だろうか? 詳しくは知らなくても名前だけは聞いたことがあるだろう。今も多くの人々に尊敬され愛されている人物だ。 坂本龍馬は土佐藩(高知県)に生まれ、日本の明治維新に計り知れない功績を残してくれた。 坂本龍馬が偉いのは卓抜たる先見性を持って新しい政策を打ち出し、それを実行したことだ。
 彼が残した偉業はなんといっても、薩長同盟の締結と大政奉還の奏上だろう1)。 当時の日本はペリーの来航により、国中が混乱していた。 幕府が現体制を維持しようとする一方、それを倒そうとする藩や人物が現れていた。 会津藩(福島県)、桑名藩(三重県)などが幕府を維持しようとしたのに対し、 長州藩(山口県)、薩摩藩(鹿児島県)などは幕府を倒そうとしていた。
 江戸時代の日本は藩が政治単位になっていて、藩が異なるというのは、今の感覚では国が異なるようなものだった。 同じように幕府を倒そうとした長州藩と薩摩藩でも、アメリカとロシアぐらいに遠い存在だった。 両藩は幕府を倒そうとさまざまな活動を行いながら、その主導権争いをしていた。 両藩が協力することなど誰も考えつかなかった。だが、龍馬は幕府を倒すためには、両藩の協力が必要と考えた。 そして、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允との面会にこぎつけ、薩長連合の締結を実現させた。
寺田屋
■図1 寺田屋
2階の部屋
■図2 2階の部屋
2階からの眺め
■図3 2階からの眺め
 薩長連合が成立したことで幕府を倒す動きは加速した。 だが、そのままでは幕府を維持しようとする勢力と倒そうとする藩の間で戦いが起き、多くの血が流れる。 一刻も早く近代国家の仲間入りを果さなければならない日本には取り返しのつかない状況となる。 龍馬は平和な解決策を模索し、将軍が政権を朝廷(天皇)に返すことを考えた。 政治を幕府が続けるか、薩摩藩あるいは長州藩に代わるか、あるいは天皇が行なうか、混沌としている時に、 幕府の将軍自ら政権を返すことを申し出る。誰もが思いつかなかった案で、戦も避けることが出来る。 これを土佐藩の前藩主 山内容堂に上奏し、山内容堂から将軍に上奏してももらうことに成功した。大政奉還である。
 そんな龍馬が京都で活躍する時に泊っていたのが、図1の寺田屋である2)。 新しい政策を打ち出す龍馬は、つねに幕府から狙われていた。 薩長連合の話し合いが上手くいった夜(1866年1月23日)、龍馬は長州藩の三吉愼蔵と寺田屋に戻った。 龍馬らの動きは密偵により幕府に筒抜けになっており、その夜の3時頃に伏見奉行所からの捕り方が来襲した。 龍馬は短銃を構え三吉は槍で戦ったが、龍馬は左指を切られ多量に出血した。 二人は寺田屋奥の階段から降り、隣の家の雨戸を打ち破って逃げ、薩摩藩邸に保護された。いわゆる寺田屋騒動である。 寺田屋は当時のままに残り、右側に見える寺田屋の提灯は江戸時代のものままである。 龍馬が襲われた2階の部屋(図2、3)もそのまま残されている。 部屋の柱には、寺田屋騒動の時の刀の跡などが生々しく刻まれている。
 寺田屋騒動の後、龍馬は鹿児島に行き静養する。 龍馬が考えた大政奉還の素案は、1867年10月3日幕府に提出された3)。 龍馬は9日に京都に入り、13日には土佐藩に出入りする醤油商の近江屋に移り、大政奉還の行方を見守っていた。 同じ13日、十五代将軍徳川慶喜は十万石以上の諸藩重臣を前に政権の返上、すなわち大政奉還を表明した。 龍馬の喜びと安堵感はさぞ大きかったに違いない。 10月24日には土佐藩の依頼で福井に旅立ち、11月5日には再び京都に戻り、新しい国家の進むべき道を考えていた。 11月15日の夜、龍馬は同じ土佐藩の中岡慎太郎ともに国事を語っていた。 そこに何者かが押し入り、龍馬を殺害、同じく襲われた中岡慎太郎も2日後に息を引き取った3),4)。 わずか33年、龍馬の短い生涯だった。殺害者にはいろんな説があるが、幕末の混乱に紛れて分かっていない。 龍馬らが殺害された近江屋は壊され、今では図4のように旅行社の前に坂本龍馬、中岡慎太郎遭難碑が建てられている。

坂本龍馬遭難碑
■図4 坂本龍馬遭難碑
 寺田屋に行くには、京都駅から近鉄京都線に乗って奈良方面に向かい、桃山御陵前駅で降りて、10分ほど歩く。 歴史を刻んだ館内が一般に公開されている。当時のままの寺田屋を外から眺めて2階にあがれば、 龍馬達らが酒を飲みながら熱心に国事を語った姿や、薩長同盟に向け奔走する龍馬の姿が浮かんでくる。 遭難碑に行くには、京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、四条駅で阪急電鉄京都線に乗り換えて川原町駅で下車し、 歩いて5分ほどである。 また、龍馬について興味を持ったら司馬遼太郎さんが書いた『竜馬がいく』5)を読んで欲しい。 1962年6月21日から産経新聞に連載されたこの小説6)は今でも多くの人々に感動と喜びを与え続けている。(終り)


参考文献
1)野島博之:一冊でわかるイラストでわかる 図解日本史,成美堂出版,93〜102 (2006)
2)菊地啓明:坂本龍馬の33年,歴史読本 臨時増加クロニクルB,新人物往来社,150〜157,170〜175(1999)
3)菊地啓明:坂本龍馬の33年,歴史読本 臨時増加クロニクルB,新人物往来社,126〜135,219〜231(1999)
4)NHK歴史発見取材班:歴史発見【1】 薩摩発秘密指令「龍馬を暗殺せよ」,角川書店,170〜217(1992)
5)司馬遼太郎:竜馬がいく,文春文庫,文芸春秋
6)司馬遼太郎記念財団:司馬遼太郎,司馬遼太郎記念財団,26〜29 (2001)



戻る