地球の大きさを計る(3) | ||||||||||
−計測に人生をかけた高橋至時と伊能忠敬− | ||||||||||
運営委員 高 木 茂 行 | ||||||||||
1800年6月11日の午前5時頃、忠敬たち6名は近くの富岡八幡宮(図3,4)に参拝し、小雨の降る中を北海道に向け出発した。 彼らは多くの苦難を乗り越え、往復3200kmの道のりを180日かけて測量した。 北海道までの道のりを毎日計りながら歩いたのである(図5)。測量にかける執念はすさまじい。 忠敬が作成した地図の精度は高く、師の高橋至時を唸らせただけでなく幕府でも驚きの声があがった。 このため、1801年には東北の東海岸の測量(第2次)、1802年には東北西海岸の測量(第3次)、 1803には東海・北陸の測量(第4次)と日本各地の地図作りに出発し、1816年まで続いた。 さて、地球の大きさの件である。忠敬も至時(ヨシトキ)も地球の大きさにこだわったが、正確には緯度で1度の距離を知りたかった。 1度の距離が分かれば、360倍することで地球全周の長さを計算できる。忠敬は第1次の測量で1度の長さを28.2里と算出した。 里は日本で使われていた距離の単位で1里は3.927kmで、28.2里は110.74kmとなり、地球全周は39867kmとなる。 苦労して図った値であったが至時には受け入れてもらえなかった。何しろ歩数を数えるという至って簡単な測定方法だ。 何百キロも歩けば誤差も大きいと考えるのが普通である。第2次測量では歩測とともに間縄(ケンナワ)を使い、やはり1度は28.2里となった。 間縄というのは一定長さの縄で、これを伸ばして距離を測った。第3次測量でも忠敬の測定結果は同じ28.2里となった。 それでも測定結果を受け入れない至時に忠敬の怒りは収まらず、第4次の測量に行かないと言い出すほどとなった。 一方の至時も忠敬の測定結果を正しく判断したいと悩んでいた。そこに嬉しい知らせが飛び込んできた。 オランダから入ってきた当時最先端の天文学書『ラランデル暦書』の翻訳を幕府から頼まれたのである。 しかし、至時はオランダ語があまり得意ではなく、病弱で無理がきかなかった。
第4次測量から戻った忠敬は、1803年の10月に高橋至時と面会し、日本で初めて1度の計測ができたことをともに喜んだ。 忠敬が江戸に出てから10年、至時が幕府の天文方になって8年である。二人の喜びはさぞ大きかったに違いない。 その後、忠敬は1816年の第十次測量まで日本全国の計測を続け、1818年5月17日に74歳で他界した。 死の一半年前まで測量を続けた彼は、文字通り測量に自分の人生をささげた。 一方の至時は翻訳作業の負担がたたって体を崩し、1804年2月15日に40歳の若さで他界した。 二人とも自分の命を削って地球の大きさを測ったことになる。 1回目の紹介したエラストテネスは、井戸にまっすぐ射す太陽を文献で知り、天才的なひらめきで地球の大きさを求めた。 これに対して、忠敬と至時は自らの命を削りながら地球の大きさを測定した。団員の皆さんは科学者としての魅力をどちらに感じるだろうか? さて、これまでの先人の業績を知ったら次は自分達で試す番だ。5月活動のかたつむりでそれを紹介する。 (つづく)
*2006 年に佐原市と香取郡小見川町、山田町、栗源町が合併して、香取市が誕生しました。現在では伊能忠敬の旧家は香取市佐原町になります。
前回のかたつむりは間違っていましたので訂正します。
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