番外編 歴史の跡をたずねて(3) | ||||||
− 邪馬台国を彷彿させる吉野ヶ里遺跡1 − | ||||||
運営委員 高 木 茂 行 | ||||||
日本の歴史がまとまって文章に書かれたのは古事記、日本書記で奈良時代のこと。 それよりずっと以前のことは記録に残っていない。 だから発掘された遺跡などから過去の歴史を推定することになる。 だが、中国では一足早く文字が使われ、西暦200百年頃の日本の様子が魏志倭人伝(ギシワジンデン)の中に書かれている。 当時の中国は魏と呉(ゴ)と蜀(ショク)という三つの国に分かれていて、魏の国で倭人(日本人)について書かれたものだ。 その中の記述で、日本はいくつかのクニに分かれ争っていたが、女王卑弥呼によりまとまり邪馬台国になったとある。 それまでバラバラに分かれていた日本がまとまり始めたことを示す重要な記述だ。 今では日本というまとまりの中で生活しているが、その元となった候補の一つが邪馬台国だ。 しかもそれを女性の卑弥呼が治めたというから、多くの人の関心を引き付ける。 もう一つの論点は邪馬台国の場所だ。九州説と近畿説が今でも激しく競いあっている。 これについて考えてみよう。魏から邪馬台国に行くまでの行程は、以下のように記述されている2,3)。
問題はGとHだ。文字通り読むと、Gは船で南に20日行き、Hさらに船で南に10日行き、 1ヶ月歩くとある。不弥国からこれだけ移動したら九州を超えて南の海についてしまう。 そこで九州説はG、Hの単位を間違えたとする。例えば20日は2日とかいった具合だ。 もう一方の近畿説では、東を南と間違えたとする。 Fの不弥国から東に移動すればGで中国地方の投馬国に着き、そこからHで近畿に到着するという説だ。 吉野ヶ里遺跡は発掘が進むにつれて、図2のように多くの建物が並び、 当時のクニに匹敵する規模を持った遺跡であることが分かってきた。このため九州説が脚光を浴びた。 次回はその吉野ヶ里遺跡について紹介する。(つづく)
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