このレポートは、かたつむりNo.333[2009(平成21)10.18]に掲載されました

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番外編 歴史の跡をたずねて(3)
− 邪馬台国を彷彿させる吉野ヶ里遺跡1 −
運営委員 高 木 茂 行
 
吉野ヶ里遺跡1
■図1 吉野ヶ里遺跡1
吉野ヶ里遺跡2
■図2 吉野ヶ里遺跡2
魏志倭人伝の推定地(図解日本史から引用)
■図3 魏志倭人伝の推定地(図解日本史から引用)
 今回は科学の記事を離れ、歴史や遺跡を紹介する番外編。 取り上げたのは佐賀県の吉野ヶ里遺跡(ヨシノガリイセキ 図1、2)。 この遺跡は古代史最大の謎とされている邪馬台国(ヤマタイコク)論争を再燃させた1)。 まずは、遺跡の背景となる邪馬台国と女王卑弥呼(ヒミコ)について紹介する。
 日本の歴史がまとまって文章に書かれたのは古事記、日本書記で奈良時代のこと。 それよりずっと以前のことは記録に残っていない。 だから発掘された遺跡などから過去の歴史を推定することになる。 だが、中国では一足早く文字が使われ、西暦200百年頃の日本の様子が魏志倭人伝(ギシワジンデン)の中に書かれている。 当時の中国は魏と呉(ゴ)と蜀(ショク)という三つの国に分かれていて、魏の国で倭人(日本人)について書かれたものだ。
 その中の記述で、日本はいくつかのクニに分かれ争っていたが、女王卑弥呼によりまとまり邪馬台国になったとある。 それまでバラバラに分かれていた日本がまとまり始めたことを示す重要な記述だ。 今では日本というまとまりの中で生活しているが、その元となった候補の一つが邪馬台国だ。 しかもそれを女性の卑弥呼が治めたというから、多くの人の関心を引き付ける。
 もう一つの論点は邪馬台国の場所だ。九州説と近畿説が今でも激しく競いあっている。 これについて考えてみよう。魏から邪馬台国に行くまでの行程は、以下のように記述されている2,3)
@倭国に至(イタ)るには、船で韓国を経て7,000余里(ヨリ)で倭国の北岸の狗邪韓国(クヤカンコク)に到着する。
Aそこから海を1,000余里渡り、対馬国(ツシマコク)に着く。
B海を南に1,000余里渡ると一支国(イキコク)に至る。
Cまた海を1,000余里渡ると末廬国(マツラコク)に至る。
D東南へ500里陸行すると伊都国(イトコク)に到着する。
E東南へ100里進むと奴国(ナコク)に至る。
F東へ100里行くと不弥国(フミコク)に至る。
G南へ水行20日で投馬国(トウマコク)に至る。
H南、女王の都のある邪馬壹国に至る。水行10日陸行1月。
里というのは距離の単位、余里というのは『〜を少し超えて』という意味。 陸行というのは陸を歩いて移動すること、水行というのは船で水の上を移動することだ。 例えば、@番は『魏から倭国に行くには、船で7000里を少し超えて移動する。 そうすれば倭国の北岸の狗邪韓国(クヤカンコク)に到着する』と述べている。 クニの名まえは難しいが、書かれている内容はどこへどれだけ移動するかという単純なものだ。 このうち@〜Fまではある程度場所が定まっていて、それをまとめたのが図3だ3,4)。 韓国を出て対馬、壱岐、九州へと船で移動し、九州内を歩いて不弥国に到着する。
 問題はGとHだ。文字通り読むと、Gは船で南に20日行き、Hさらに船で南に10日行き、 1ヶ月歩くとある。不弥国からこれだけ移動したら九州を超えて南の海についてしまう。 そこで九州説はG、Hの単位を間違えたとする。例えば20日は2日とかいった具合だ。 もう一方の近畿説では、東を南と間違えたとする。 Fの不弥国から東に移動すればGで中国地方の投馬国に着き、そこからHで近畿に到着するという説だ。
 吉野ヶ里遺跡は発掘が進むにつれて、図2のように多くの建物が並び、 当時のクニに匹敵する規模を持った遺跡であることが分かってきた。このため九州説が脚光を浴びた。 次回はその吉野ヶ里遺跡について紹介する。(つづく)




参考文献
1)大塚初重他:倭国大乱と吉野ヶ里,山川出版社(2005)
2)フリー百科事典 ウィキペディア
3)武光誠:テラスで読む邪馬台国の謎,日本経済新聞社,P31〜51(1992)
4)野島博之:一冊でわかる イラストでわかる 図解日本史,成美堂,P16,17(2006)


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