このレポートは、かたつむりNo.334[2009(平成21)11.15]に掲載されました

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番外編 歴史の跡をたずねて(4)
− 邪馬台国を彷彿させる吉野ヶ里遺跡2 −
運営委員 高 木 茂 行
 
柱跡
■図1 柱跡
中央建物
■図2 中央建物
主祭殿
■図3 主祭殿
柵と環濠
■図4 柵と環濠
 再び魏志倭人伝の邪馬台国の話し。女王卑弥呼の生活についてはこう書かれている1,2)。
『卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室(キュウシツ)や楼観(ロウカン)で起居し、巡らされた城柵(ジョウサク)、多数の兵士に守られていた。 王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。』
卑弥呼が治めていた邪馬台国には宮室、楼観、城、柵があったことになる。邪馬台国の遺跡が見つかれば、これらの建物の跡が発見されることになる。 吉野ヶ里遺跡はどうなっていたのだろう。
 吉野ヶ里では発掘が進むにつれて、土の中から何本もの太い柱を立てた後が見つかった3,4)。 この時代、土に穴を■図1柱跡あけて柱を立て、これを支えに建物が作られた。 長い年月で建物が壊れても、柱の穴になっていたところは硬く作られていたから、覆いかぶさった土とは区別がつく。 注意深く掘っていけば、土の硬さから柱の建っていた穴を見つけることができる。 図1は青森県の三内丸山(サンナイマルヤマ)遺跡だが、このようにして発掘された柱の跡である。 ずいぶん大きな穴があいている。柱の跡からは、どのような建物かを想像することができる。 大きな穴には大きな直径の柱が立てられるから、穴の直径から建物の高さを見積もることが出来る。 また、穴の並び具合から、建物の縦横の長さが推定できる。 こうした遺跡を考古学者が見れば、古代の建物を想像できるという訳だ。
 吉野ヶ里遺跡から見つかった柱の跡をもとに、考古学の先生方が当時の建物を再現した。その様子が図2〜5である。 中央に3層の建物と周囲のいくつかの建物があり、その周りが柵と溝で囲われている。 図3が中央の大きな建物は主祭殿と呼ばれ、それを図2のように多くの建物が取り巻いている。 建物の周囲には図4、5のように柵と溝が作られている。上で引用したような魏志倭人伝の記述に近い。 吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であると決定付ける証拠は無いが、当時いくつかに分かれていたクニの一つであることは間違いない。 それが九州で見つかったことから、邪馬台国が九州にあったとする九州説が脚光をあびた。
 吉野ヶ里遺跡には、物見やぐらや、図4、5のような柵や溝がある。 とくに溝は、周囲を環(ワ)のように取り囲んでいるため環濠(カンゴウ)と呼ばれている。 これらは外部からの敵の進入を防ぐものである。 また、見つかった人骨の中には頭の無いものや、槍の刺さったものがあり、この時代は大きな戦いに明け暮れていたことが分かっている3,4)。 一方、これらの建物の周囲からは、一般の人々が生活した住居も見つかっている。 図6は、その典型的な建物で土に穴を掘って柱を立てた竪穴式住居である。 内部は図7のようになっており、中央には火をたく囲炉裏があり、内部では布を作るため蚕(カイコ)を飼っていたと考えられている。 その他にも図8のような米などを蓄えた倉庫も見つかっている。 この時代の人々が戦いをしながらも米作りや養蚕をしながら、よりよい生活を求めて暮らしていたことが伝わってくる。
 現在、吉野ヶ里遺跡は里歴史公園して整備され、当時を再現した建物と発掘され遺跡が展示されている。 吉野ヶ里遺跡に行くには、博多駅から鹿児島本線で鳥栖駅まで行き、長崎本線に乗り換えて吉野ヶ里公園駅で降りる。 博多からは約1時間だ。駅を降り歩いて10分ほどで到着する。 藤沢からだと遠いから簡単には行けないが、家族で九州に行った時や大学生になって行ってみることをお勧めする。
(終わり)










竪穴住居
■図6 竪穴住居
住居内部
■図7 住居内部
 
環濠
■図5 環濠
倉
■図8 倉


参考文献
1)フリー百科事典 ウィキペディア
2)武光誠:テラスで読む邪馬台国の謎,日本経済新聞社,(1992)
3)大塚初重他:倭国大乱と吉野ヶ里,山川出版社(2005)
4)吉野ヶ里公園管理センター:弥生の里 吉野ヶ里


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