このレポートは、かたつむりNo.453[2018(平成30)04.01(Sun.)]に掲載されました

戻る

発電所の話あれこれ(4) --「電燈局」という名の発電所−−
運営委員 小 野 哲 夫
 
 日本で最初の発電所は、その名前が発電所ではなくて電燈局(でんとうきょく;燈は灯の旧字)でありました。 銀座で電灯点灯のデモンストレーションを行われた1882年(明治15年)に日本初めての電気会社が作られて、 ここで計画された発電所の名前が第一、第二、第三、第四、第五電燈局であったのです。 これは、電気を送り届けるとしても、明かり用つまり電灯用の電気として商売することを考えていたからでしょう。

 5ヵ所計画された電燈局は、第一電燈局の皇居近くの麹町から、第二電燈局が日本橋茅場町、第三が京橋、第四が神田、 そして第五が浅草?千束とこの時代の会社や商業などの中心地と言える場所でした。 この中で一番最初に出来たのは第二電燈局で、11月29日に送電を始めました。 これによって、日本で初めて送電を行なった名誉は第二電燈局となって、作られた跡地には記念碑「電燈供給発祥の地」が建てられています。

 碑には、発電施設として「直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据え付け、20KWエジソン式直流発電機1台を運転・・・」と書かれていて、 現在で言う火力発電所でありました。汽缶というのは蒸気を作るボイラーのことで、直立ですから縦型つまり立ち上がった形のボイラーとなります。 燃料としては石炭を使っていて、日本橋川を使って船で運んでいました。 また、汽機というのは蒸気機関を意味していて横置汽機は横置きの蒸気機関となりますから、現在の火力発電所のような蒸気タービンではなくワットの蒸気機関だったのでしょう。

横置き蒸気機関
(出典小学館日本大百科全書(ニッポニカ))
 発電機は直流210Xで送電方式は直流三線式であったと、示されています。 直流三線式と言うのは、ちょうど乾電池2個を直列につないで+極、−極から線を出して3X取れるようにすると同時に2個の乾電池の間からもう1本の線を出して、 この線と前の線との間で1.5Xが二つ取れるような方式となります。(もちろん、2個の乾電池の間から出している線の+−の極性は変わることになりますが・・・) この方式で近くの日本郵船会社、東京郵便局などに電灯用の電気を供給したとありますが、直流送電のため遠くに送ることができず半径2qの範囲であったと言われています。

 使われた発電機は、エジソンダイナモと呼ばれるエジソンの発明した直流発電機で、上野の国立科学博物館で見ることができます。 20kwの発電機ですから銘板の大きさから見て分かるように、あまり大きなものではありません。 昨年の夏季活動で見学した奈良田第一発電所(出力27,600Kw)の発電機より、いかに小さいかが分かるでしょう。 また、電燈局内部の写真はその翌年に出来上がった第一電燈局のものでありますが、 この内部も見学した発電所と比べると古めかしばかりではなくチャチと感じるのは私だけでしょうか?

エジソンダイナモ

電燈局の内部
(麹町電燈局に設置したブラッシュ式發電機
『東京電燈株式會社開業五十年史』より)
 このように電燈局の発電機などは現在に比べれて小さなもので、作られる電気もごくわずかで電燈局の周辺の限られた範囲に送電されるだけでした。 これは、アーク灯より目に優しい白熱電球が完成されていなかったので、電燈を利用する人が少なかったことが大きな理由であったのでしょう。 また、日本に限らずアメリカやヨーロッパにおいても、まだ大きな発電機を作ることや、送電の技術が完成していなかったことにあります。
 それでも、電燈局が計画・建設している間にエジソンをはじめとした人たちが白熱電球などの開発を進めていて、 電燈局が完成したころにはアメリカやヨーロッパで電球の製造販売が発電機や送電技術の発達とともに行われるようになってきました。 この電球を使うようになっって電燈局の利用が増えてきましたので、より多くの電気が必要となってきました。
 このことから、最初の送電から9年後の1896年(明治29年)には、一ヵ所で発電してそれぞれの電燈局に送る大型の火力発電所が浅草に作られました。 これによって、電燈局は配電所(はいでんしょ)と名前を変えて、ここから家庭や会社に電気を届ける(配る;くばる)ようになりました。 ――電気を配るということから配電所と名前が変わったんだと、想像できるでしょう。

戻る