このレポートは、かたつむりNo.463[2019(平成31)01.12(Sat.)]に掲載されました

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発電所の話あれこれ(10) ―― 藤沢にあった発電所 ――
運営委員 小 野 哲 夫
 
 藤沢にあった発電所は、江ノ島電鉄線の誕生に伴うものでした。 江ノ電は、電気鉄道としては日本で6番目にできた鉄道ですが、電気がなければ動かすことができません。 そこで開業に合わせて発電所を作りました。 片瀬発電所と呼ばれた発電所で発電された電気は、電車を動かす動力に使われるばかりではなく、家庭の灯り用として周辺の住宅に供給されました。 それは1908年(明治41年)のことで、藤沢に電気はじめと言ってよいでしょう。 しかしながら、電力会社が出来て大量に電気が販売されるようになると江ノ電も電気を購入するようになって、関東大震災後には廃止されたようです。
 その発電所は、同社の社史「江ノ電の100年」によれば「片瀬発電所」と呼ばれ、 「所在地 鎌倉郡川口村大字片瀬字大源太、原動力 汽力、容量 75KW(直流)」となっています。 汽力というのは蒸気の力を意味していますから、火力発電で直流75KWの発電となっていることが分かります。 (汽力の「汽」は旧字ですが、蒸気にはこちらを使っていました)
 しかしながら、所在地については簡単にはわかりませんでした。 というのも、「電燈局」の話でしたように火力発電の燃料としての石炭を運ぶには、その量が大量であることから舟で運ぶことを考えます。 ところが、発電所のあることを示す「鎌倉江ノ嶋名所図会」を見ると発電所は海岸近くにはなく、少し内陸よりに描かれています。


鎌倉江ノ嶋名所図会吉田初三郎大正6年(1917年)
http://www.fujisawa-miyu.net/enoshima/heritage/c03_16.html


小字名を付けた公園のカンバン

 となると、その場所はどこでしょう?住所を基に地図などからひも解いてゆくと、片瀬・江の島地区は川口村から片瀬町になったのちに藤沢市に合併したことや、 石上駅と柳小路駅の間に「川袋駅」という駅のあったことが分かりました。その上、なんと境川の流れる「流路」が変わっているのです。
 1910年(明治43年)9月の台風や1917年(大正6年)9月の暴風雨による洪水による被害が大きかったことから、境川の流路付け替え工事を行ったのです。 それ以前の流路を明治時代の地図で見ると、手書きの地図に赤線で記入したように現在の藤沢市保健所付近から右に大きくカーブして江ノ電の線路に近づいた後、 さらに大きくカーブしていて丁度U字のように江ノ電の線路に近づいていることが分かります。 これは石上や柳小路駅近くが少し高くなっているような地形が影響しているものと思われます。 この流路があったと思われるところは現在住宅やマンションが立ち並んでいますが、その住居表示は「片瀬」の大部分が境川の東側となっているに、 川の西側にもかかわらず「片瀬」となっていて昔の大字名の名残りがあると言えます。 また、その一角にある小公園には写真のように「大源太公園」とのカンバンが掲げられていて、所在地ある小字名と一致しています。
 このようなことから、江ノ電の片瀬発電所は石上駅と柳小路駅の間にあったことが分かります。 そこはまた廃止された川袋駅のあったところでもあるのでしょう。さらに、火力発電の燃料となる石炭は海上から境川を船で運ばれたこともわかるでしょう。

 最後にオマケです。境川の流路変更について市の文書館で資料展が開催されます。 「港の歴史―藤沢の浦・湊・港」と題した資料展で、「片瀬川流路変更締切地点絵図」が展示されるとのことで、1月9日〜3月1日の期間です。(「広報ふじさわ」より)




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